翌朝、レセプションのフロアに降りると、宿のおかみさんが野菜とホブス(ナンに近い中東のパン)、ゆで卵にヨーグルトの簡単な朝食を出してくれた。夕べ聞こえてきたボートについて聞いてみると、やはりこのホテルの裏からスピードボートが発着し、15,000ディナール(1,500円)でクルーズができるようだった。食後早速申し込んだ僕は宿の若い従業員に乗り場へ案内された。エレベータで地下に降りると、そこは水辺に面しており、チャイを飲んでしばらく待っているうちにやがて一艘のスピードボートがやって来た。

 

他に乗客はおらず、僕と宿の兄ちゃんが乗り込むと、モロッコ出身だという船頭がハンドルを握って勢いよく船を出発させた。

写真も動画も撮っていいから前に座りなと促され、船の一番先頭を陣取り、水しぶきを軽く浴びながらエンジン音と共に颯爽と水面を走り抜ける心地よさ。童心に帰れる一時だった。

ここはそもそも何だろう。幅10メートルぐらいの川の両岸には土色のなだらかな丘。そこに平屋の民家がへばりつくように時々見られる。水辺に茂る草木からは水鳥の親子が現れたり消えたり。途中でボートは方向転換してホテルの方に同じスピードで逆戻りし、20分程のクルーズは終わった。後で知ったのだが、ここは川ではなく正にドゥカン湖の一部。その形状に惑わされたが、道理で川らしい流れは無かった。

宿の兄ちゃんから外貨を換金できる場所を聞くと、夕べケバブを食べた食堂の隣にある携帯ショップで換えられるとのことで、早速そこで30ドルを43,500ディナールにチェンジ。軽く湖を見て回ってからラニヤに戻ろうと思い近辺をうろつくと、一人のじいさんがタクシー? と声をかけてきた。湖の要所を回ってからラニヤに行きたいという意思を伝えると、じいさんは95,000ディナール(9,500円)だと言う。それ、今換えたディナールでも全然足りないじゃん。そもそもそんなにするのか。他を当たってみようにも、別のタクシーは全く見当たらない。やむなくこのじいさんとしばらく交渉を続けて70,000ディナールまで下がったが、それでもディナールが足りないので、もう一度携帯ショップで30ドルの追加交換をお願いする。過去に訪れたシリアやレバノンでは少額のドル札も普通に流通していたのだが、ホテルの支払いの時に見られたように、この辺りではなぜかこれら少額のドル札を嫌う傾向があり、何で最初から100ドルで換えないのかと二度目の換金を渋られた。さっき換えた額じゃ足りなかったんだよと懇願して何とか換金することができたが、こんな田舎町で思わぬ出費を余儀なくされたことに苛立ちを覚えた。だが今日の深夜のフライトでイラクを立つ僕にとっては見るべき所を早く見て、早くエルビルに戻ることを先行しなくてはならない。モヤモヤ感は残ったもののさっさとお金を払い、じいさんのタクシーに乗ることにした。

 

 舗装されていないゴツゴツした細道を走りながら、じいさんはドゥカン湖のいくつかの風景スポットを回ってくれた。英語がほとんど通じないので、始めの頃はただお勧めの風景を指差すだけで停まってさえくれなかったが、写真を撮りたい時にこちらからストップと言えば停まってくれることがわかってきた。

 

目に入るその風景は周囲の岩山だらけの地形の中では異様な程にブルーに輝く水を蓄えている。まるで河川そのもののような見た目の不思議な湖なのだが、元々は50年代前半、当時イラクを支配していたファイサル王政が灌漑目的で小ザブ川という川をせき止めて作った貯水池らしい。

 

乾ききった険しい山々と対照的なこのブルーの風景をしばし楽しんだ。ネットでドゥカン湖を調べればもっと美しい絶景の写真も見られるが、集落の気配が無いのできっとここからは遠いのだろう。とりあえず湖見学が一段落した所でタクシーにはラニヤに向かってもらうことにした。最終目的地はエルビルなのだが、ラニヤにはガラッジ(バスや乗り合いタクシーのターミナル)があることを知っていたからだ。そしてもし昼時に到着できれば、ニワトリ屋の弟が経営するクルド料理店に行ってみたかったという目的もあった。

 

 そんなわけで、言葉も通じずあまり愛想も良くないじいさんが運転するタクシーは黙々とラニヤへと走り出す。岩山を縫うような道路、時々見える小さな集落をひたすら走る静かな時間が過ぎていく中、ふと時計を見ると正午を過ぎていた。この分だとラニヤ到着は2時近くになるかもな。そう思った時、じいさんはふとある建物の前で車を停めた。

 ちょうど町と町の中間地点にある日本で言うドライブインのような食堂だった。できることならラニヤのクルド料理店で食事したかったが、このじいさんだってそりゃ腹の減る時間帯だろうし、ここは仕方無いか。店内はだだっ広い割に食べている客はまばら。店員が持って来たメニューはほとんどケバブぐらいしか置いてなさそう。やっぱり外食と言ったらケバブしか選択肢が無いのか。じいさんは僕が席に着くのを確認するとそそくさと店の裏の方に行ってしまった。なるほど、こうした食堂には運転手が食事する専用スペースがあるのだろう。特に彼と会話もできないし、ここは一人さっさとケバブに食らいつこう。ここでもエルビルで食べた時と同様、ケバブとホブス、それにカレー風味のスープとミネラルウォーターのセットで5,000ディナール(500円)だった。

 イラク三日目にもなればケバブの食べ方も多少は慣れてくる。ナイフで長いケバブ本体を何個かに分け、野菜と一緒にホブスにくるんで口に放り込む。僕が食べ終わった頃に奥からじいさんが戻って来た。彼も奥で食事を終えたのかなと思っていると、おもむろに僕の座るテーブルの席に着き、店員を呼んで僕と同じケバブを注文した。

 「え? じいさん、これから食べるの?」

彼が奥の方に行ったのは運転手の食事スペースではなく、正午のお祈りをする小部屋のようだった。やがて彼が食べ終わって勘定する際、予想は付いていたが彼の分も負担する形となった。ラニヤまで行くのに70,000ディナールも払ったじゃん、それに含まれてないの? ちょっと言ってはみたがじいさんは首を横に振る。結局二人分10,000ディナールの出費。じいさんは食事のセットに付いてきたミネラルウォーターを僕に手渡しながら若干申し訳無さそうな表情をしていたので、一応彼の好意ということで受け取った。

 「じゃ、ラニヤのガラッジまでよろしく。」

出発の時はラニヤの行先までは言っていなかったが、ここで食事してしまったのならラニヤの街中に行く必要は無くなった。ガラッジまで行ってエルビル行きの乗り合いタクシーに乗り換えよう。

 

 「おお、また会ったな! 行っていいよ!」

ドゥカンとラニヤの間のチェックポイント。車から降りた僕を覚えていてくれた兵士、笑顔で握手するとすぐに通してくれた。

 やがてラニヤのガラッジに到着。タクシーのじいさんに別れを告げた僕は早速近くにいた係員にエルビル行きを尋ねると、すぐに該当する車を教えてくれた。それは隣国シリア等でセルビスと呼ばれる乗り合い型の軽ワゴンバスで、エルビルまでは6,000ディナール。後部座席に座って出発を待っていると10分もしないうちに三、四人のグループ単位で人が乗り込んできて、瞬く間に車内は満員となった。こうして密着して座ると彼等クルド族は大柄な人の率が高い気がする。この人々は特に僕に関心を持っていないようだったので、ここから約二時間窮屈さを我慢しながら、ただ黙々とエルビルに向かうのだった。

 一軒の商店で飲み物を買い、それをリュックにしまってしばらく歩いていると、ニワトリの入った檻が店先に並ぶ通りにさしかかった。

中には十羽ぐらい入っており、別の籠の中には大きな七面鳥が一羽いた。ふと立ち止まって眺めていたら、店のおじさんがまぁ、座っていきなよと笑顔で歓迎してくれた。疲れていた僕は天の助けと思い、勧められるままに座らせてもらった。おなじみのワンカップ式ミネラルウォーターを頂き、例の翻訳アプリを使ってちょっとおしゃべり。生きたまま売ってても買う人がいるのかといったことを聞いてみたら、こちらの人々は普通にニワトリのまま買って帰り、食べ頃な時に自分達でさばいて食べるらしい。アプリで会話できる内容に限度があることもあり、あまり細かな話はできなかったものの、リラックスして楽しい時間を過ごせた。

 

しばらくすると彼の弟という男性が店にやって来たのだが、彼はこの近所でクルド料理店を経営するシェフだとのこと。彼の作る豪華絢爛な料理をスマホの画像で見せてもらった。実は日本を出る前、研究がてら十条にあるクルド料理店に何度か行っていた。その国の名物料理をあまり知らないまま旅してしまい、そんな美味そうな料理があったのかと帰国してから知って後悔したことが何度かあったからだ。その店で特に気に入ったクルド料理は、ひき肉と玉ねぎを包んだクティリクという揚げ物、そしてラマジュンというピザ風の料理だったが、実際クルド自治区にやって来てもまだ全然その姿を拝めていない。そこで十条の店で食べた際に撮影したクティリクやラマジュンの写真を彼に見せてみた。ああ、それね、と言うように彼は何度も頷き、それらの料理の画像も見せてくれた。

(これは十条のクルド料理店の写真)


「この写真のクティリクは表面が少し黒いな。ここはほどよい茶色が一番いいんだ。ほら、俺の作ったのを見ろ。ここを茶色くする揚げ加減はすごく難しいんだ!」

彼は翻訳アプリと片言の英単語でそう説明してくれた。今すぐにでも彼の店に行ってみたかったが、先程シャワルマを食べたので腹一杯だったのと、写真から判断するに結構高級料理店っぽかったので、今は写真だけ堪能させてもらった。

 一段落してシェフの彼は自分の店に帰り、ニワトリ屋のおじさんも少し作業を始めたので、僕もお別れすることにした。

 

 さて、これからどうしようか…。この街に夜までいたいとはあまり思わない。ここからスレイマニアは車でまだ時間がかかるのだろうか。次の行先をまだ決めかねていた。ダボダボズボンにターバン姿のクルドの老人達が両替屋で雑談し、羊を荷台にいっぱい積んだ軽トラックが通り過ぎる。そんな通りをどの角度から見ても周囲は巨大な岩山に囲まれている。そうか、僕はまだあのガイドブックにあった山々の景色を見てなかったな。ここを去るのはいいが、あの景色は見ておかないと何のために来たかわからない。まずはそこへ行ってみよう。

とりあえず行先が決まったその時、僕は急にトイレに行きたくなった。中東の街を歩く時、なかなかお目にかからないのが公衆トイレ。だがこの時、商店街の道沿いのある出入口で数人の若者や老人が出入りしている場所を見つけた。あ、その手があったか! 


そこは外観からはほとんどわからなかったが、非常に小さなモスクのようだった。僕はすぐにその入口をくぐり、靴を脱いだ。モスクではお祈りをする前に手足を洗ってお清めをするので、トイレが併設されている。地元民にとって大変大事な場所であることはわかっているものの、中東でいざと言う時はこの場所で拝借することにしている。まずは入って左手に並ぶ個室トイレのうち空いている所に駆け込み、目的を達成する。その後は右手にある銭湯の洗い場のような蛇口をひねり、手首と足首を洗った。奥の礼拝スペースでは何人かの男性達が目を閉じ、体を折り曲げながら祈りを捧げている。用事は済んだし、ここは静かに立ち去ろう。そう思って腰を上げようとした時だった。

 「アッサラームアライクム。」

隣から低い声が聞こえた。はっと振り向くと、そこには白い顎ひげを生やし、ターバンとダブダブズボンの民族衣装を身にまとった長老風の老人がいた。アラビ? アラビア語はわかるかと聞いているのだろうか。シュワイヤ(少し)、と返す。本当は少しなんてレベルですらないが。シーニー? 中国人かと聞いているのはわかるので、すぐにヤバーニー(日本人)と返す。

 「アハラン・ワ・サハラン。」

老人は杖にもたれかかりながらその場から立ち上がり、ようこそと歓迎してくれた。その杖は年季の入った木製で取っ手の部分が「の」の字になっている正に仙人か魔法使いが持っていそうなものだった。威厳のある風貌の老人が丁寧に挨拶してくれたのが嬉しく、ショクラン(ありがとう)と感謝の言葉を返した。すると老人、モスレム? つまりイスラム教徒かと聞いてきたものだから、ちょっと答えに詰まった僕はもう一度ショクラン、とお礼を言って静かに、そして速やかに靴を履きに行った。ここであの質問はイエスと言ってもノーと言っても墓穴を掘りそうだ。まさかトイレを借りに来たなんて、口が裂けても言えない僕は退散するより他あるまい。ヤバーニー、モスレム! 出口から出る時、奥の方で老人が他の人に話している声が聞こえた。イスラム教徒の日本人がいたぞ、などと話しているのだろうか。

 

 モスクの外に出ると、ちょうどうまい具合にタクシーが一台停まっているのを見つけた。僕が運転手に声をかけると、僅か二秒後に女性の二人組がタクシーに乗ろうとこの運転手に声をかけてきた。だがこちらの人の方が先だよと運転手が女性達を断ってくれたので、何とか足を確保できた。僕は今朝見たガイドブックの岩山のページを写したスマホ画像を見せ、ここに行きたいと言った。運転手は頷き、4,000ディナール(400円)で行ってくれることになった。

 かくしてウマルさんという名の愛想のいい運転手のタクシーに乗り込み、山肌と断崖の間を縫うように続く道路を走ること約20分。その景色は公園とか、登山口等といった名所化された所ではなく、普通の道路に面した場所にあった。車から降り、ガードレールを背にして見上げれば、正にガイドブックに載っていた通りの高く険しい山の斜面が空をも覆い、外界を遮断するようかのように圧倒的な存在感でそびえ立っていた。岩肌のあちこちが尖っていて、何か巨大生物のようにも見える。

今も一部のクルド族が信仰するヤジディ教という宗教はイスラム原理主義者からは悪魔崇拝と決めつけられ、近年ISによって彼等が無慈悲に殺害されたり、誘拐された上に奴隷として売り買いされた等、残酷な話も耳にするが、彼等の住む地域を囲む山々がこんな巨大生物に似た形をしていて、侵略者の行く手を阻んでいたのだとすれば、逆恨みした侵略者達はこの山々を怪物や悪魔と形容することもあったのかも知れない。いずれにせよ古来よりこんな山々に囲まれながらクルドの人々は独自の文化を守り切ってきたのだな。さすがのISもそう簡単に攻めては来られない地形だったのだな、なんていろいろ納得させられるのだった。


 さて、とりあえずラニヤでの目的は達成された。これからどこへ行こうか。スレイマニアはまだここからは遠いのか聞いてみると、やはり三時間近くはかかるとのこと。それを聞いて何だか面倒くさくなった僕は自治区の地図を広げ、ここから一番近くて観光できそうな町を見つけ出した。その町はドゥカン。イラク最大の人口湖ドゥカン湖と言った方がよく知られているかも知れない。そこまでは40,000ディナール(約4,000円)ぐらいだそうだが、もうこの車でそこに行くしかあるまい。車内に流れるクルド民謡の調べと共に曲がりくねった山道の舗装道路をひた走り、その町に到着した頃にはもう日が暮れていた。ウマルさんは地元の人々に近くのホテルの場所を確認し、とある一軒のホテルに辿り着いた。

 

ドゥカン・プラザ・ホテルと書かれたその宿は、この町ではそこそこ大きなホテルだった。団体客が泊っているのかフロント周辺にはイラク人の若者を多く見かけた。切り盛りする夫婦は英語がわからず、周囲の若者達の中にいた女性が英語で通訳をしてくれた。聞くと一泊50 USドル。高級感はほとんど無いのにちょっと高いなと感じるが、フロントに張り出されていた価格表を見ると確かに一泊50ドルと書いてあるので、足元を見て騙しているわけではないのだろう。今日はいろいろ疲れていて、今から周囲にあるかどうかもわからない宿探しをする余力は残っておらず、ここに泊まることにした。カードが通じない上、現金も5ドル札以下の紙幣をホテル側が敬遠するので、通訳してくれた女性に両替してもらってとりあえずチェックイン。少し休憩した後でレストランのある通りをスタッフに教えてもらい、店先のオープンテーブルで夕食。ここでもメインディッシュはケバブだったが、この店ではライスやスープもセットになっていて大変美味しく頂いた。やはり米はいい。

 

 僕の食べていたスペースにはビニール製の屋根があったので大丈夫だったが、食べている途中いきなりビニール屋根を叩きつけるような激しい音と共にどしゃ降りの雨が降ってきた。中東と呼ばれるこの地域でこんな熱帯地域のようなスコールに遭遇するなんて想像も付かなかったが、食事が終わった頃にはぱったり止んでしまった。

 勘定して席を立つと、通り周辺にはいつの間にか軽食の屋台が並んでいた。アジア各国の屋台には興味あるものの多くはケバブやシャワルマといったお決まりの軽食。今ケバブをたらふく腹に入れた僕は立ち寄りたいとは思わなかったが、ふと炭火とコーヒー豆のにおいの漂う方を見ると、コーヒーを出す屋台店舗を見つけた。食後の一杯を飲みたくなった僕は早速カウンターに座った。物腰柔らかいマスターからトルコ風かアラブ風か聞かれたが、やはり中東に来ればよく飲んでいたあのトロッとした感じのトルコ風を注文。

クルド民謡がBGMに流れる中、マスターが専用の鉄製器具にコーヒーの粉を入れ、炭火で焼きながら沸かしてくれた一杯は旅の疲れをきれいに洗い流してくれたのだった。

明けましておめでとうございます。

 

この二年ぐらいは23年にコロナ、24年にインフルと一家寝たきりの年末年始を過ごしてしまいましたが、今年は何とか普通の年越しをすることができました。昨年は5年ぶりに未踏のアジアを訪ねる旅を再開し、ややハードルの高いイラクとサウジアラビアを弾丸旅で訪れることができました。旅行記も引き続き書いてご報告していきたいと思います。

 

さて、ブログや小冊子にて拙いアジア旅行記を書いておりますが、旅をテーマにしたラジオ番組を聴きながらウォーキングすることを日課にするようになってから、これら旅行記を自分の声で朗読して残してみるのも面白そうだなと思うようになり、ちょうど同じ時期に知人から音声配信サイト「HEAR」を紹介されたので、そこから配信をしておりました(その辺のいきさつはこちら)。

 

そんな配信を始めて1年ちょっと。第24章 台湾・モルディブ編の朗読のアップをもって、これまで作成した43か国分全てのアジア旅行記の投稿が完了し、あとは昨年のイラク・サウジ旅行記を早く完成させるぞ!と、思っていた矢先…。

そのサイトが24年の年末でサービスを終了することになり、コンテンツも消えてしまうとのこと…。何だかすごいショック。

 

そんな中、「HEAR」を通して聞くようになった他の配信者の方の一部は「stand. fm」という別の音声投稿サイトに移管し始めた(と言うか平行利用していた)ため、僕も急遽、そちらに引越ししようと思います。朗読旅行記はスマホにバックアップがあるので、また一からになりますが、自分にとって初めての朗読となった23年4月の投稿分から順々に、隔週一章ベースで再スタートしていきたいと思います。 初期の旅行記は十代の時の拙い内容、朗読も初心者期のもので大変恥ずかしいのですが、もし宜しければ聴いてみてくださいね。

stand.fm「Ling Muの大アジア周遊記

 

別件ですが、たまたま「PIN traveler」というアプリを見つけ、よくわからないままにやってみました。要はこれまで行った都市にピンを立てる旅のログブックのようなものですが、いろいろ行ったもんだなと実感。超絶アジアに集中してますね。



ではでは、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 昨日チェックインまでコーヒーを飲んで待ったカフェスペース。今朝はここでアラブ歌謡界の女王ファイルーズの美声をBGMに意外と美味い中東風味の朝食とケーキをゆっくり食べながら窓越しにエルビルの街並みを眺める。アラブコーヒーを注ぐ金属製のポットや羊毛製のタペストリー、積み上げられた中東音楽のカセットテープ等、趣深い店内のレトロな装飾を眺めていると、隅っこにクルド自治区のガイドブックが置いてあることに気付き、手に取ってみた。

 

 限られた日程、エルビル以外の訪問地として想定していたのは自治区第二の都市スレイマニアだったが問題点が二つ。一つはこのスレイマニアはエルビル同様大きな街ではあるが、名所旧跡が少ない。クルド民族の歴史博物館と、フセイン政権がクルド族に行った残虐行為を記憶する博物館の二か所は見所として知られているが、片道二、三時間をかけてまで見たいかと言われると、ちょっと考えてしまう。博物館が不定期に休館するケースはアジア旅ではあるあるだし、はるばる来たのに閉館だった時のガッカリ感はきっと大きい。もう一つの問題はスレイマニアまでの移動。険しい山岳地帯を迂回するため、近隣の街キルクークを経由する路線が多いそうだが、そこは自治区外になるため、もし途中検問があったら、自治区のビザしか持っていない僕はトラブルに直面する危険がある。できればエルビルからそれほど遠くないロケーションにクルドらしい所があればいいのになぁ、と思ってこのガイドブックのページをパラパラめくっていた所、ふとある場所が目に付いた。それは天を突き刺すような険しい絶壁の写真だった。

 

ラニヤという場所らしい。ちょうどエルビルとスレイマニアの間ぐらいに位置し、行政的にはスレイマニア州に属するようだ。今日はこのラニヤに行ってみるか。そこで一泊して、翌日スレイマニアを見てからゆっくりエルビルに戻るというコースはどうだろう。

 

 そうと決まれば準備開始だ。荷物をまとめた僕はチェックアウト。支払いでカードが使えず、近くのATMも壊れていたので、やむなくフロントでドル札を換金して支払うことになった。

 タクシーはスムーズに捕まり、現地ではガラッジと呼ばれる乗り合いバスやタクシーのターミナルに行ってもらった。やがて辿り着いたガラッジ、空港のようなX線検査のゲートのある建物を抜けると、その向こうにはタクシーやワンボックスカーが何台か停車しているスペースがあり、数人の男達が行く先を叫んでいた。その中にはラニヤ、ラニヤ、と叫んでいる人もいたので、早速ラニヤに行きたいと言うと、彼は一台のタクシーのある所へ案内してくれた。運転席の前にはダブダブのズボンを太い縄のような帯で締め、頭にターバンをかぶった老人が立っていた。クルドの民族衣装である。

 

車の近くには一人の青年とその母親とおぼしき親子が座っていた。二人共もちろん英語は一言もわからなかったので例の翻訳アプリを使ってみるも、彼等の方がうまくそれに答える方法がわかっていなかったのでコミュニケーションはやや難しかったが、終始笑顔を絶やさず一人旅の外国人を歓迎してくれていることだけは伝わってきた。ともあれタクシーは普通の乗用車タイプなので、これで人数が揃ったということでラニヤに向けて出発。料金は10,000ディナール(1,000円)だった。

 

親子は後部座席、僕は助手席に座り、車は勢いよく走り出す。周囲の景色はあまり個性の無いビルや商店がある以外はほぼなだらかな丘で退屈であったが、油田地帯のあるキルクークが近いためか、すれ違う車にはタンクローリーが多かった。ラニヤまでは一時間ぐらいですか、と運転手のじいさんにアプリを使って聞いてみたが、俺にはわからんと言うような態度で首を振った。このじいさんが時々携帯で通話する時はクルド語で話しているようだが、アラビア語はわからないのだろうか。運転中も終始無言で、あまり愛想のいい男ではない。

 途中、軍の検問を三、四か所通った。いずれもパスポートの提示を求められたが、軽く見せるか、或いは彼等がパスポート番号と名前を記帳するとすぐに通行を許可された。一か所だけ軍の事務所まで誘導された時は少し緊張したが、事務所にいた兵士のうち一人は仮眠用ベッドでゴロ寝している等、雰囲気はのんびりしており、ここでも彼等が記帳するだけで特に何もお咎め無く通ることができた。

彼等はイラクの国軍と言うよりクルド自治区の治安部隊で、かつてはフセイン政権に抵抗したペシュメルガと呼ばれるクルド人ゲリラ部隊の流れを汲んでいる。

 

 街中でよく目に付き始めたのは、スーツ姿に眼鏡をかけたムッツリ顔の男性の肖像画。彼はフセイン政権崩壊後に一時大統領を務めたクルド愛国同盟代表のタラバニ議長だ。フセイン政権に対する先の反乱を戦い、今は自治区政府を運営するペシュメルガにはクルド民主党とクルド愛国同盟の二大勢力があり、両者は長年ライバル関係にある。クルド民主党が主にエルビル、クルド愛国同盟が主にスレイマニアを拠点としているため、タラバニ議長の肖像画が現れたことでこのタクシーがスレイマニア州に入ったことを知らせている。

 

 出発して一時間が過ぎようとしており、そろそろラニヤに入ったかなと思ったその時、後部座席に座っていた親子がバイバイ、ホダーハフェズ(さようなら)、と僕に挨拶してタクシーから降りた。彼等は何とラニヤまで行かず、その手前の小さな町で降りてしまったのだ。僕はここに来る前にクルド自治区を旅した人のブログをいくつか読んだのだが、地方都市へ向かうタクシーの中で乗り合わせた人と仲良くなり、そのままその人の家に何日かステイしたという話があった。もちろん先程の親子にそこまでお世話になろうとは思っていなかったが、ラニヤまでご一緒できれば、近場の安い宿や食堂を紹介してもらったり、気が向いたら一緒に食事でもできたらいいな、と思っていたが、そんな期待はあえなく崩れた。又、他のブログにはタクシーの運転手から安くていい宿を紹介してもらったという話もあったが、隣でハンドルを握るこの仏頂面のじいさんからはそんな情報を引き出せる気がしない。これって知らない街に一人ポツンと置いて行かれる最悪パターンじゃないか? そんな僕の不安は的中した。

 

 先程の親子が降りた所より少しだけ大きな街にやがて到着。どうやらここがラニヤらしい。案の定運転手のじいさんは、ここがラニヤのスークだ、と言って僕を降ろすと、そのままさっさと行ってしまった。

何とも小さく人通りの少ない商店街沿いで大荷物を背負いながらポツンと佇む。おいおいおい、これからどうすればいいんだよ…。路頭に迷うとは正にこのこと。弱音が声に出てしまった。そこへハロー、と斜め後ろから声がかかったかと思うと、一人の中学生ぐらいの少年がそこに立っていた。肌は真っ白で髪は茶色く、青い目をしていた。古代より様々な民族に侵略されては追い払い、また侵略されを繰り返す歴史を背負うクルドの人々にはいろいろな血が混じっており、10人か20人に一人はこうした欧米人によく似た風貌の人もいたりする。僕は藁にもすがる思いでこの辺にホテルはある? と聞いてみたが、彼はホテル、ノー、と首を横に振る。そしておもむろに携帯を取り出し、いきなり僕の横に並んでツーショットを撮ると、バイバイ、と言って裏路地を駆けて行ってしまった。写真を撮りたいのならせめて僕も撮らせてほしかったのにな…なんてブツブツ言いながら当ても無く商店街を歩く。昼時だし、とりあえず何か食べるか。その食堂の人間からホテルの情報を聞くとしよう。

 この通りには何軒かシャワルマの軽食屋が並んでいた。回転する羊の肉を細長いナイフで細かく切り落とし、それを野菜と合わせてピタパンの中にサンドして食べる、日本で通常「ケバブ」と呼ばれるキッチンカー等でおなじみの料理だ。僕はある一軒に入ってシャワルマを求めたのだが、店先の若い店員は困った顔をして首を振る。材料が無いのかと一瞬思ったが、他の客にはきちんと盛り付けている。これだよ、とその客が持つシャワルマを指差すが、店員は申し訳無さそうに「ノー、ノー…」と首を振り続けるだけ。言葉わからないので、すみません…。地方の行楽地にふらりと現れた外国人に英語で話しかけられ、ちょっと私じゃ対応できませんといった反応をする日本の光景と少しだぶって見えた気がした。よく見るとこのシャワルマにも味付けや具材等でいくつか種類があるようで、その辺のコミュニケーションが取れないからゴメンナサイ、という感じの雰囲気があった。だがそれでは僕がメシにありつけないだけなので、この店に執着する理由は無い。すぐに他を当たることにした。数軒先にもう一か所シャワルマの店があり、そちらでは親切に対応してもらえた。味付けのソースがセルフになっていたので、逆に頼みやすいシステムだった。味の方は日本のキッチンカーで食べるあれ、そのもの。あのキッチンカーのケバブは意外にも本場の味と言っていいのかも知れない。

 

 この辺にホテルある? 食べ終わった後、二人いたうちの若い方の店員に尋ねてみる。彼は店先に出て手振りを交え教えてくれた。一本目の通りには無い、二本目の通りにも無い、三本目の通りを曲がると大きなモスクがある。その近くにホテルがある。彼はアラビア語かクルド語しか話していなかったが、感動的なぐらいわかりやすい伝え方で教えてくれた。

言われた通り一本目、二本目の路地を素通りして三本目の所で曲がると、そこは道幅の広い賑やかな大通りとなっており、確かに銀の屋根の大きなモスクが見つかった。近くで立ち話していたおっさん達にホテルを尋ねると、すぐそこだよ、と二人で同じ場所を指差して教えてくれた。通りとは塀で仕切られてわかりにくい上、工事現場が隣接していて一見ホテルには見えない建物だったが、とりあえず階段を上がって行ってみる。ホテル名はアラビア語のみで書かれていて、何という名前のホテルかさえわからない。中は薄暗く、小さなレセプションっぽい窓口に顔を出すと、一人の従業員がいた。一泊泊まれるかと英語で聞いたが、無表情のこの男は全く通じていない様子。部屋はある? 一泊いくら? 簡単な単語で聞いてみるも、この男はただ首を傾げるだけ。そこへイラク人らしき別の客が現れ、この男にアラビア語で何かを聞くと彼等はそのまま話し込んでしまったので、終始蚊帳の外状態の僕は何だか気分が悪く、そのままホテルを出てしまった。

 大荷物を背負ったままの状態で日用品店や衣類の店、両替屋等が並ぶ大通りをブラブラ歩き、この街のランドマークのような銀の屋根のモスクに行ってみるものの、誰一人として僕にかまう者はいない。そもそも観光客目当ての施設が無いからだと思うが、あまりこの街に歓迎されていないのかな。最初はその風景に惹かれて来たわけだけど、何だか来る所を間違えたような気がした。確かにこの街は高い山々に囲まれているようには見えるからガイドブックも嘘を書いているわけではないのだろう。でも残念だけど、どこにも落ち着けない今の状況ではどこまでもネガティブになってしまう。そして僕の中ではこの街に泊まろうという気が全く起こらなくなった。

先週末、家族でよみうりランドに行った。毎年家族で遊園地と言えば、距離的に一番近いよみうりランドである。絶叫マシン好きな妻はジェットコースターのバンデットがお気に入りで、まだ娘が小さかった頃も一人で乗っていたが、昨年から娘もバンデットデビューを果たし、今回は最初から三人で乗ろうと45分の行列に並び、あの開始当初の50メートルからの落下にワー‼️ギャー‼️と悲鳴を上げまくって楽しんだ。


この日は結構混んでいて、どのアトラクションも最低30分の行列ができていたため、うち一箇所に並んで遊んだ後は園内をブラブラ散歩。

そんな時、ふとバンデットがゆっくりと昇って行く所が見えたので、立ち止まって何気なく見ていたら、これから落下するという寸前でいきなり動きが止まった。


え? あれ、何で止まっちゃったの? 三人不思議そうに見上げていたら、次の瞬間、場内の建物や木立が美しくライトアップ。



周囲の人々は歓声を上げながらスマホで撮影し始める。カップルや女子のグループが多いだけにみんな目の前の幻想的な風景に夢中で、頭上の状況には誰も気付いていない。



バンデット、止まったままじゃん…。


位置的には出発して一番上の場所まで上がり、これから勢いよく落下する寸前の場所で止まっている。乗ってる人達はこれから待ち受ける絶叫級のスリルを前に一番緊張しているであろうタイミングでこの焦らしは何だ⁉︎ と感じているに違いない。ライトアップの時間帯だけ一瞬焦らす演出があるのだろうか、と思ってしまった。


ご飯でも食べに行くかと、その場から移動しようとした時、バンデットの出発場所近くから焦げ臭い匂いが漂いだした。そして行列周辺ではバンデットの運行中止を知らせる放送が流れた。更にどこかからバンデットのモーターが故障したみたい、という囁き声が聞こえた。

上で取り残された乗客の恐怖はいかほどだろう。人によっては今後ジェットコースターがトラウマになってしまうに違いない…。なんて思いながら、レストランの屋外テーブルから固唾を飲んで見守っていると、やがて係員に誘導されたのか、レール沿いの階段を降りていく乗客達の姿が見えた。手摺りで軽い怪我をした方がいたようだが、とにかく無事救出されたようでホッとするのだった。



運行中止に伴い、バンデットに並んでいた人々があちこちに分散した影響か、どのアトラクションも1時間以上の行列ができてしまい、結局この日はバンデット合わせて二つぐらいしか乗り物には乗れなかった。



最後はイリュミネーションのきれいなエリアを散歩して帰宅したのでした。



 奥突き当りに二軒の庶民的な料理屋を発見。一軒は人々で座席が埋まっていたのでもう一軒を覗いてみると、そこにいた店員にどうぞどうぞと中へ案内された。粗末なテーブルがいくつか置かれたいかにも大衆食堂な雰囲気で、一人か二人が食事していた。メニューが欲しいと言うと、ここはケバブ屋だからケバブしか無いよ、いくつ欲しい? と店員に聞かれた。じゃ、一個ちょうだいと言ってしばらく待つと、やがて運ばれてきたのはホブスというナンのようなアラブの平べったいパンの上にぶつ切りの焼きトマト、生の玉ねぎ、ピクルスと共に大きな棒状のケバブが乗せられたプレートであった。

どのように食べるのかよくわからず、フォークで少しずつ食べていたが、近くの人の様子を見るとこのケバブの一部を切り外し、野菜をトッピングしながら、それらを三、四等分に千切ったホブスに巻いて食べていた。フォークで切るとケバブは中から濃厚な肉汁がじゅわっと吹き出し、ボリュームいっぱいの美味い羊肉。これを平らげるとすっかり満腹となり、勘定すると5,000ディナール(500円)。言われた通りに支払うと店員は何だか嬉しそうな様子でその金を別の店員に見せて回っていたので、少し吹っ掛けられたのかも知れないが、500円なら十分過ぎるぐらい美味いケバブであった。

 

 食後の運動がてらバザール内を少し歩き回ると、アイスクリーム屋に若い女性達が群がっていたのでちょっと足を止めた。ケースの中には様々な色のアイスが入っていたが、どれも毒々しい原色ばかり。すると愛想のいい店員の兄ちゃんがどれにするか聞いてきた。青いのはブルーハワイかなと思い、青いのちょうだいと言うと、彼は青いアイスをカップに盛り込むと、他には? とまた聞いてきた。二、三個一緒に注文するのが普通なのだろう。しばらく物色していると、これがうまいぞ!と言って店員の兄ちゃんは白いアイスを同じカップにねじ込み始めた。彼は更にこれもうまいぞ、そしてこれもうまい! なんて有無も言わさず茶色、黄色、紫と次々にアイスを盛り付け、カップはたちまち五色の派手派手パフェのようになってしまったが、値段はそれでも1,500ディナール(150円)だったので、このチョイスでよしとしよう。

日本人だと言うと彼はウェルカム、ウェルカムと笑顔で店内のイートインに案内してくれた。上から順番に味わってみるとシャーベット寄りのアイスで、紫は紫芋、黄色はレモン、茶色はチョコ、白はミルク、青はベリーという意外と想像通りの味で安心した。

 

 

 そうこうしているうちに日も暮れてきた。エルビルの第一印象はやはり平和で安全だということ。人々で賑わってはいるが、ほとんど地元民かイラク国内の行楽客で外国人はほぼ皆無ゆえ、しつこい物売りや人を騙そうと近付く輩は全くおらず、下手に観光化された国の街よりも歩きやすい。そうは言ってもまだ初日。安全第一ということで、そろそろ広場を出ようと思った時、シーシャでもやっていかないか、と声がかかった。

 

 見ると広場を囲む喫茶エリアがシーシャ(水タバコ)屋になっており、地元の人々が屋外の椅子に座りながら全長1メートルぐらいのシーシャ器具から伸びるホースを口にくわえ、思い思いに煙を吐き出していた。そうだな、過去にもカタールやオマーン、日本でもシーシャを楽しんだことがあるし、最後に一服していくか。席に勧められると隣に座っていた二人の青年がアラビア語で歓迎してくれた。ホースの先を通してゆっくりと吸い込み、プハーっと煙を吐き出すとエキゾチックなミントの淡い香りが広がっていく。嗅覚を通して脳内に入り込んだその香りは、新たな未知の国を歩いた今日という一日のちょっとした心の疲れを優しく包み込む。包み込んで見えなくしているだけなので疲れが消えたわけではないのだが、一瞬それらを忘れて気分が落ち着いてくる。

 

隣の二人の青年はアラビア語で話しかけてくるものの、自分は日本人だとか、名前はLing Muだ、ぐらいしか言えないので、例の便利グッズであるスマホの翻訳アプリが再登場。彼等は腕に少し彫られた鳥だかコウモリだかのタトゥーを自慢げに見せてくれたので、日本では入れ墨してる人はマフィアだと思われるよ、と冗談交じりに言うと、いやいや、僕等はマフィアじゃないよ、としきりに首を振っていた。すぐ隣に座る彼は、自分の父親はこんな感じなんだと言ってスマホの画面に写る昔のアラブの酋長のような出で立ちの人物の画像を指差した。まさかイラクの大統領? と聞くといやいや違う、と首を振る。現在のイラクの政治指導者はスダニ首相だが、大統領は儀礼的な国家元首に過ぎないため今は誰なのか知らなかったのだ。ひょっとすると地元部族の酋長なのだろうか。何かのリーダーなのですか、と聞くと彼はそうだ、そうだと頷いた。有力者の息子なのかも知れないが、アプリの力だけでは何者なのかは掴めなかった。そんな彼、しばらくすると自分のスマホから兄弟やら友人やらとビデオ通話を始め、今オレは日本人と一緒にいるんだぞって少し誇らしげな様子で僕を紹介していた。

目の前に差し出されるスマホ画面には代わる代わる彼の知人の顔が現れるが、何も話せない僕はとりあえず手を振ってハローとか、サラームとか、マルハバとか挨拶の言葉を次々と送るのだった。


 「日本とイラクはこの前、サッカーで対戦したね。」

彼はおもむろにそう言った。きっと今年1月にカタールで行われたアジアカップのことで、日本は1対0でイラクに敗れた。実はその時、僕はふと感じた。武装勢力が猛威を奮っていた内戦時期のインパクトがあり過ぎて、僕を含め多くの日本人は今なおここイラクではまだミサイルが飛び交い、あちこちでテロが頻発していると思っているのが現状だと思う。元々イラクがそのような状態の頃、サッカーの試合で日本と当たっても勝つことはほぼ無かったと記憶している。イラク、変わったのか。今我々が想像している無法地帯のイラクは既に過去のものなのではないか。少なくとも国内でまともにサッカーができる環境は確保され始めたのではないか。そう思った僕はネットで今のイラクについて調べてみた。まだまだ少数ではあるが、ここ数年の間にイラクを旅した人の手記もあった。特にクルド自治区に至っては国内でも一番安定しているようだ。未踏の中東の国々の中から僕が今回の旅先としてイラクを選んだきっかけは正に今年のサッカーが少しは影響していたと思う。

そして今、目の前に広がるこの広場では、8時を過ぎても沢山の老若男女が幸せそうに闊歩している。ボール状の何かを空高く放り上げると、羽根突きの羽根のようなものが広がってパタパタと羽ばたき始め、クルクル旋回しながらゆっくり落下する不思議なオモチャがよく売られており、それで楽しそうに遊ぶ子供達の姿を見て、こちらも嬉しくなるぐらい平和な情景だった。

 「イラクは平和になってよかったね。」

目の前の印象だけに過ぎないものの、一日目の第一印象ということで僕が言うと、二人の青年は嬉しそうに大きく頷いた。ありがとう、イラク代表チーム。彼等のシュートは日本のゴールだけでなく、僕のこの国への偏見の壁を崩してくれた。ま、地上波で放送されていなかったので試合自体は見ていないが。

 

 吐き出すシーシャの煙と共に漂っていた香りが薄まってきたかなと感じ始めた頃、二人の青年はハラース(おしまい)と言ってスックと席を立ち、それぞれ勘定すると特に何も挨拶することも無くサッサと帰って行ってしまった。数分前まで一生懸命アプリを使って楽しく話していたのに、何だか素気無いな。話し相手がいなくなり、ここに長居する理由もなくなったので僕も2,000ディナールを店員に払って引き上げることにした。青年達に変な期待をしていたわけではないが、他の中東諸国では出会った地元民からチャイの一杯ばかりご馳走になる機会がよくあっただけに、現地人と打ち解けるスキルや雰囲気が僕の中で低下しているのかなと、自分に対して少し寂しくなった。

 ま、そんなことを思うのはきっと疲れのせいだろう。明日どこに行くかは明日決められるのだ。IT化し過ぎてスマホで事前予約していないと何もできない他の国々と違い、一昔前のようにある程度自由気ままな旅ができそうなので、浦島状態の僕には打ってつけの国こそここイラクなのだ。早くホテルに戻って休むとしよう。

このタクシーの運転手は簡単な英語がわかり、話すと意外と気さくな男だった。街まで向かう車内でクルドの民謡からポップスまで流して聞かせてくれた。アラブ歌謡界のスーパースターであるカゼム・エル・サヘルを筆頭にアラブ全域に名が通ったスター歌手にも少しはイラク出身者はいるが、そんなアラブ歌謡とはリズムや曲調が大分違う気がした。どこがと言われても説明は難しいが、民族的に近いイランの音楽の方がより近いと思った。この国の公用語はアラビア語とクルド語。特にクルド自治区であるこの一帯はクルド語の方がよく使われている。両言語は系統が異なるが、同じアラビア文字を使っているので、街中の看板等がどちらの言語で書かれているのかはよくわからない。地元のクルド族は両言語を話すことができるようなので、アラビア語で書かれていても特に問題は無さそうだ。

 

 街中に多くはためくのは赤、白、緑の横縞の中央に黄色い太陽が描かれたクルド自治区の旗で、イラク本国の国旗よりも多く目に付く。元々はクルド民族の旗であり、将来もしこの地の人々の念願が叶ってクルジスタンが独立したら、そのまま国旗になるであろう旗だ。クルド自治区というのは一つの自治体ではなく、現在イラクにある19の州のうち、クルド族が多数を占めるエルビル、スレイマニア、ドフーク、ハラブジャの4州がこの自治区を構成している。クルド族は国を持たない最大の少数民族と呼ばれており、イラク以外にもトルコやイラン、シリアそしてアゼルバイジャン等複数の国の国境をまたいで居住している。中でも1,000万人以上の人口を抱えるトルコでは独立を求める動きが昔からあり、中央から弾圧を受け続けた結果、難民という形で今も世界中に散らばっている。日本でも埼玉県を中心に約2,000人が住んでいるが、最近では他のアジア系移住者同様に、いや、それ以上に心無い言葉がネット上に並ぶことも多く、旅を通して中東に愛着を持つ僕にとっては胸が痛むこの頃である。そんなトルコと並んで、ここイラクのクルド族もまた最近まで安定した環境にはおらず、フセイン政権やISによる残酷な虐殺も経験してきたが、それらが崩壊、もしくは弱体化した現在ではクルド族独自の議会や首長のもとで自治区が正常に機能しており、どこよりも一定の自治が認められているようだ。ただ認められているのはあくまで自治であり、クルド議会が独立を議決しても国側がそれを認めることは無い。自治区と国とでは元々その範囲に意見の隔たりがあり、特に自治区に隣接するキルクーク、ニナワの北部2州も歴史的にクルドの土地なのでこちらに編入すべきと主張する自治区側と、クルド族以外の民族も多いし大きな油田もあるこれらの州は手放さないとする国側とで意見が異なっている背景もあり、独立はセンシティブなトピックとなっている。

 

かくして運転手としばし楽しく会話しているうちにボート・ホテルに到着。近辺にとりわけ特徴のある建物も無い通りに建つビジネスホテル風の宿だった。フロントにいた二人の従業員はフレンドリーに対応してくれたが、僕の泊まる部屋はまだ準備中とのことで、5階にあるカフェ兼朝食レストランで10分程待つよう言われた。

僕はエレベータでカフェに行き、店内に並ぶ数々の中東グッズを眺めながら甘いトルココーヒーを飲んでしばし過ごした。10分後に呼びに来ると言っていたのに30分が過ぎてしまい、再度フロントに降りて状況を聞く。結局部屋に入れるまでに40分かかってしまった。午後一番ぐらいには市内観光に出発しようと思っていたのだが、やはり一つの物事をこなすのに一時間近くかかってしまうのはこちらの常識なのだろう。時計を見るともう午後の3時。そろそろ市内の名所である世界遺産エルビル城塞跡に行ってみるとしよう。フロントの従業員に城塞跡はここから歩いてどのぐらい? と聞いてみると、微かに驚かれた。歩いたら30分ぐらいかかるから普通はタクシーじゃないと厳しいよと言う。予約した時は確か城塞跡から近いロケーションと書かれていた記憶があるし、僕は日々ウォーキングをしているので、速歩きすれば20分ぐらいで行けるのではないかと思い、グーグルマップを開いて早速出発することにした。

 地図によると城塞跡までは確かに長い距離をひたすらまっすぐ歩き、そこからある場所で右折してまたひたすらまっすぐ歩くルートだった。よし、頑張って歩くぞ! 最初はそう意気込んで歩いていた。一直線の車道は日本車を中心とした車がビュンビュン行き交うが、歩道は狭くて所々デコボコしていてちょっと歩きにくい。塀には時々クルド族が踊っている壁画が描かれていたものの、建物もまばらで人通りも少なく、風景が退屈である。時々出くわす交差点は完全に車優先の構造になっていて横断歩道も無く、激しいスピードで急カーブしてくる車の群れをよけながら向こう側へと渡るちょっとした危険地帯。約20分歩いた所で地図を見ると、最初の直線道路の半分も歩けていないことを知り、このまま歩き続けるのは時間の無駄だと判断した僕は、たまたま信号で停車した車道のタクシーを見つけ、乗ることにした。

 

 「エルビル・カラまで。」

エルビル城塞まで行ってほしいと言うと運転手は頷き、チャール・ハザールと言った。クルド語で4,000ディナール(約400円)という意味だ。クルド語はアラビア語と違ってペルシャ語系の言語で、以前僕が少しだけ習ったアルメニア語とも似ている部分がある。数字の言い方も少し重なるので僕には覚えやすく、むしろクルド語で言ってもらう方が助かった。

 だがしばらくすると運転手、どこのスーク(市場)に行きたいのかといったようなことを聞いてきた。いや、スークじゃなくて城塞だよ。僕がもう一度エルビル・カラとアラビア語の言い方を繰り返すと、彼はやっと理解し、その発音を正してくれた。城塞を言う時は、カの部分はガに聞こえるほど強く、そして語尾ははねるような発音で「カラッ」と言うんだと教えてくれた。そのまま「カラ」と発音したので別の意味に取られたのか。

 運転手のおっさんは僕が日本人だとわかると笑顔で自分の両手で握手するような形を作り、歓迎の意思を表してくれた。彼は嬉しそうに何か言っているので、僕はスマホの音声翻訳アプリを取り出し、ここに話してと吹き込むと、アプリがアラビア語で同じ意味の言葉を発した。これを使えば英語のわからない相手ともおしゃべりを楽しめるだろうとスマホを差し出すと、彼は電話の向こうで誰かが話しているのかと思い、耳に付けてハロー? ハロー? と通話しようとした。いやいや、ここに話して、と画面上のマイクのアイコンを指差すと意味がわかったようだが、今度は彼、延々としゃべり始めてしまい、翻訳が追い付かなくなった。僕もこれに慣れたのは最近だし、やり方がわからないと使いこなすのは難しいな。結局彼が沢山話してくれた言葉のうち、日本は素晴らしい、車もいい、ぐらいしか伝わらなかったが、歓迎してくれている様子は十分伝わったので嬉しかったことは確かだ。

 

 15分程でタクシーは道沿いに小さな店が並ぶスークのような所で停車した。ここからは歩いて城塞まで行けるらしい。衣類、食品、日用雑貨等の店が立ち並び、向かい合う道路沿いにも露店が並ぶ。タバコ、お菓子、携帯の部品、帽子やスカーフ、それになぜか下着を売る店舗も多かった。ふと左手方向に歩いて行くと、やがてやや高台になった場所の上に巨大な城壁が見えてきたので、興奮しながら速足でそこまで行ってみる。

この周辺一帯を囲むようにどこまでも続く長い日干しレンガ製の巨大な壁こそがエルビル城塞跡。原型は石器時代から作られ始め、古代アッシリア帝国時代には既にここに都市が築かれていたらしい。以来改築、増築を繰り返しながら二千年以上の年月が過ぎた今もこうして街のシンボルとなっており、2014年にユネスコ世界遺産に登録された。

その城塞の正面に広がるのはシャー・ガーデン・スクエア。ビッグベンのような時計台を中心に沢山の噴水の水しぶきが立ち上り、地元民やイラク国内の行楽客の雑踏で賑わう広場だ。

あちこちに翻るクルド自治区の旗の下を飛び交う鳩の群れ。モスク、喫茶店、屋台、巨大電光掲示板、そしてエルビル最大の市場カイサリ・バザールがこの広場の周囲を囲む。

ある一郭にお土産屋が二、三軒並んでいたので覗いてみた。羊毛製の厚手の絨毯が店頭に並ぶ奥に入って土産物を物色。売られていたのはラクダの置物や砂漠デザインのタペストリー、アラブ風のコーヒーポット等、中東ならどこにでもありそうな顔ぶれで、これぞイラク、これぞクルド自治区と言えるアイテムはほとんど見られなかった。そのくせ土産屋は他にはほとんど無いようなので、店員達にはやや殿様商売的な雰囲気があり、言い値から値下げしようという姿勢が感じられなかったが、とりあえずここでエルビル城塞の写真が入ったマグネットと絵葉書を購入した。

 

 そして城塞のある高台に上がってみる。城壁自体に手を触れることはできるものの、内側が僅かに見えて出入りできそうな一郭には警官が椅子にドンと座って警備しており、中に入っての見学はできないようだった。その代わりシャー・ガーデン・スクエアを見下ろせるこの高台は地元客でぎっしり埋まっており、各々が写真を撮り合ったり、友人グループ同士で楽しそうに盛り上がっていた。当然と言えば当然だが僕の他に外国人の姿は見当たらず、周囲の人々もそれに慣れていないのか、僕に話しかける者どころか、目を合わせる者すらいなかった。きっかけが無ければ僕単独で彼等の中に割って入って話しかけたり、写真を撮ったりするほどのコミュ力も無いので、陽が傾きかけた広場の景色を数枚撮影して、ここから降りることにした。

 僕が城塞以上に惹きつけられたのは、この城塞や広場を囲むカイサリ・バザール。道沿いのエリアを歩く人々の雑踏のペースに馴染めず、歩くペースを速めたり、遅めたり。民族衣装に伝統菓子、書店に果物屋、両替屋、電化製品店もあればシリアのアレッポで見たオリーブオイルの石鹸を売る店まである。香水屋では店頭の男が行き交う人々の手元にシュッとスプレーを吹き付けてくる。所々にバザール奥へと続く小道があり、中に足を踏み入れると、薄暗く細い道沿いにどこまでもどこまでも店が並んでおり、正に迷路に迷い込む。

そんな中、ある店舗にDVDやCDらしきものが並んでいるのを見つけて立ち止まったが、中には誰もおらず、鍵もかかっていた。ねぇ、この店は誰もいないの? 隣の店のおじさんに聞いてみると、CDの店ならこっちにもあるよと、もう一つ隣の店を教えてくれた。そこはちゃんと電灯が灯っていて、間もなく若い店主がやって来た。店内の壁という壁には沢山のフックが取り付けられ、そこにCDやMP3の真ん中の穴の部分を引っかけて陳列していた。つまりここではCDはジャケットもケースも無い裸状態で売っていたのだ。だが世界中でCDを売る店を見かけなくなった今、これでも僕はコレクターとして興奮状態だった。

しかもエルビルならイラクの歌手、つまりアラブ人を中心とした歌手の作品だけでなく、地元クルド人歌手の作品も手に入るというご当地メリットがあり、とりあえず僕は元々知っていた歌手の名前、そして今回ネットで調べたアラブやクルド出身のイラク人歌手の名前をメモしたものを店主に見せてみた。ワリード・アル・シャミ、マジッド・アル・ムハンディス、モハメッド・アル・サレム。メモにリストされた歌手名をもとに、彼は快く一つずつ探してくれた。女性歌手のチョッピー・ファタハと男性歌手のナビッド・ザルディはクルド人歌手の中でも一番人気で、ここで売られているCDアルバムもクルド語の作品だった。英語を話せるこの店主は中国に行ったこともあるそうで見聞も広く、楽しく話をした。写真を撮りたいと言うと、店内はいくらでも撮っていいが、自分が撮られるのは恥ずかしいと言って頭をかきながら店舗から離れてしまった。しかし彼は戻り際にワンカップ式のミネラルウォーターを差し入れてくれた。日本で言うプリンやヨーグルトの入っていそうな容器に入ったこの水はイラクに来てからよく見かける。そんなこんなで最終的にイラクポップスのCDとMP3を9枚買ったが、これでも合計13,000ディナール(約1,300円)だった。

初日にCDを収穫できたことに喜びを隠せず、スキップするような気分で更にバザールの奥に入ると、何やら肉のよく焼けたにおいがしてきた。

 何はともあれ、今度こそ出国スタンプを捺された僕は少し腹が減ってきたので、ファーストフードの店でハンバーガーやポテトのセットを頂く。

 

南アジアやアフリカを結ぶ便が多いのか、そちら方面の人がよく目に付く待合ロビー。僕が今回レンタルした海外Wi-Fiはサウジアラビア対応だったが、経由地であるドバイとシャルジャでも利用できるようだった。食後しばらくソファに座り、スマホでネットをボーッと見ているうちにやがて時間が近付き、エルビル行きのゲートへと移動する。やや混み合うゲート前のロビーに座ると、そこで待つ多くはこれまで周囲にいた人々とは見た目が違う。中東系だがUAEで見られるようなカフィーヤをかぶった白装束姿ではなく、少し色白で大柄な人が多い気がする。この光景だけで何か特別な場所に行くような高揚感が湧いてくる。そして間もなく離陸したLCCの小さな機体の窓からはペルシャ湾の紺碧の海に浮かぶ小さな島々が見えていたが、約一時間半が過ぎると砂漠に岩山が並ぶ荒野のような風景が広がっている。ここはもう、あのイラクの上空なのか。

 

 計画当初、実は首都バグダッドに入ることも考えていた。今回向かうエルビルはクルド自治区の中心地なので、そこで取得するビザは自治区限定のものとなり、その区域から一歩外れると、同じイラク国内でも入ることができない。一方バグダッドから入国すれば、空港でイラクのアライバルビザが比較的簡単に取れると聞いていた。このビザが取れればイラク本土もクルド自治区も関係無く移動ができる。最近安定してきたバグダッド、アラブ・イスラム王朝の都だったバグダッドを一日だけ見て回り、翌日のフライトでエルビルに行ければよいと思っていたのだが、肝心なバグダッド・エルビル間のフライトが21日も22日も無いときた。かと言ってさすがの僕も安全面を考えてこの区間を陸路で移動しようとは思わない。エルビル以外のクルド自治区の都市もバグダッドと結ぶフライトがこの二日間は無かったため、今回バグダッドは断念し、クルド自治区に特化することにしたのだ。

 

 そんなこんなでやがて機体は無事到着。いよいよイラクに来てしまった! 

治安も落ち着いてきたとは言え、まだ普通に観光目的で訪れることははばかられる国だけにやはり少しは感じる背徳感。それに不安と期待が加わって胸一杯になりながら、人々の流れと共にイミグレへと向かう。特にビザ取得を誘導する看板も無いのでそのままイミグレ窓口の行列に並んだ。小さい飛行機だったため並ぶ人数も少なく、順番はすぐに回ってきた。しかし審査官は僕のパスポートをパラパラと開くと、ビザはあるか? と聞いてきた。実はクルド自治区のビザ事情については流動的でネット情報を見ても空港で取得だとか、免除になっただとかいろんな情報が交錯しており、最新がどうなっているのかよくわからなかった。ここまでの道中ビザカウンターも無かったし、今は免除になったのだろうとばかり思っていた。ビザは無いと答えると審査官は専用のカウンターで取ってからもう一度来いと言い、行列の向こうにある下り階段を指差した。

ビザが必要な人はここから下の階に行くなんてわかりにくいなぁ、と思いながら一人イミグレの人だかりから離れて階段を降りると、ビザカウンターを誘導する案内が張ってあった。だが…。

 「誰もいないじゃん…。」

 

窓口はもぬけの殻。他に待っている人どころか人っ子一人いないフロア。しばらく待っていたが誰も来る気配が無かったのでもう一度イミグレのフロアに上がり、その辺に立っていた職員に聞くと、1番のイミグレ窓口に行って話せと言われ、再びイミグレの列に並ぶ。やがて順番が回ってきたので1番窓口に行き、いつになったら入国できるんだという苛立ちを抑えながら、ビザカウンターに誰もいないんですけど、と審査官に話す。彼はどこかに電話をかけ、もうすぐカウンターの担当者が来るから大丈夫だ、もう一度手続きに行ってくれと言う。そこでまたまた下のフロアに降りると、次のフライトが到着したらしく、ビザを必要とする外国籍の人々が数人カウンター周辺にやって来た。とりあえず係員はもうすぐ来るみたいだよ、と彼等に伝え待つこと3分。係員がそそくさと現れ、早速一番前に立つ僕のパスポートを受け取った。

 「クレジットカードを出して。」

おもむろにそう言われた僕は普段使っているマスターカードを差し出したが、なぜか読み取り機が反応しない。やむなく予備で持っていたVISAカードの方を出し、ややうる覚えの暗証番号を入力するとレシートを渡され、手続きは終わった。クルジスタン・ビザと書かれたそのレシートには72.26USドルと書かれていた。デポジットだろうと思っていたが、帰国後しっかり取られていた。クルド自治区のビザ、意外と高額なのだった。


 さて、イミグレ前の行列に三度並んだのだが、先程到着したフライトは乗客が多かったため、最初に並んだ時よりもずっと混んでいた。テープの張られたポールに沿ってS字型の一列に並んだ後、五、六か所あるイミグレ窓口のうち空いた所に係員が誘導してくれる形だったのだが、その誘導する係員が途中でいなくなってしまったため、行列の人々は各窓口の前に好き勝手に列を作り始めた。これでは入国の順番は各窓口の進み具合次第となってしまい、今まで並んでいた行列は意味を成さなくなる。しかもこれら窓口、一家族ごとにまとめて入国審査をする傾向があるのだが、各列に並ぶ人々は家族ごとに並んでいない。僕の並ぶ窓口前の列には一人しかいなかったはずなのに、その男は順番が回ってくるや大声で誰かを呼び始めた。するとあちこちの列に並んでいたおじいちゃん、おばあちゃん、子供達が一斉に移動して来て、僕の前に横入りしてくる。審査官はそれをたしなめること無く、当然のように彼等家族一まとまりの手続きを始めるのだ。彼等は最終的に順番の早い列に並ぶ家族の所に移動すればよいので、敢えて分散して並んでいる。そんなことがまかり通っているため、一人で入国する者の手続きはどんどん後回しにされ、僕はよくあることだが最後の入国者となった。

 

 入国早々少しくたびれてしまったが、とりあえず出口近くにある換金所で30USドルをイラク・ディナールに換金する。フセイン時代のように人物画は無く、名所旧跡がデザインされた地味な紙幣。そこに書かれた額面のゼロは多いが、そこからゼロを一個取った額が日本円換算だとイメージするとわかりやすい。頻繁に使われる5,000ディナールは約500円、10,000ディナールは約1,000円だ。換金の後はSIMカードを売る窓口に行く。エルビルに三日間滞在すると言うと、英語のできる愛想のいい店員が手頃なカードを選んでスマホにセットしてくれた。僕は普段使っているスマホの他に今回もう一台海外専用のアンドロイド携帯を用意してきており、とりわけ海外Wi-Fiが使えないここイラクでは、こちらの二号機にSIMカードを設置してしのごうと思っている。

 とりあえずイラクを歩く準備ができた僕が空港の建物を出ると、目の前には通り一本だけがある何もない野原。ここからどうすれば? と一瞬立ちすくんだが、間もなく一台のバスがやって来た。同じ場所にいた人々は一斉にそれに乗り始めたので僕も一緒に乗る。少し戸惑ってしまう構造だが、エルビル空港は出入口と呼ばれる場所がもっと街中の方にあり、そこと実際の空港とはこの無料シャトルバスで結ばれている。このバスに約15分揺られて辿り着いたエルビル空港出口。そこを抜けると駐車場が広がっていた。バスに乗っていた僕以外の人々はほぼ地元民なので誰かしらが迎えに来ており、あっという間にいなくなる。再びポツンと残された僕だが、今回予約したボート・ホテルには無料送迎バスがあるとも聞いてきた。しかしここにはバスが発着してそうな所も無い。立ち尽くしていると、出口近くにあるタクシーサービスの窓口の男二人がやって来た。ホテルまでは25ドルだと言うので足元見られてるなと最初は軽くあしらったが、シャトルバスの姿は相変わらず見えないし、彼等以外にタクシーもいない。このまま立ち往生していても前に進めないので、とりあえず彼等のタクシーに20ドルでホテルに行ってもらうことにした。

9月20日の金曜日は在宅勤務を終えてから出発の用意を始める。

 

肩掛けバッグ一個の中に衣類を詰め込んだ僕は夜の8時、マンションの下まで送ってくれた妻子としばしの別れを告げた。この時間、この方向ならさほど混んでいないバス、中央線そしてモノレールを乗り継いでスムーズに羽田空港到着。時間帯だけにレストランもお店もほぼ閉店している。レンタルの海外Wi-Fiを受け取り、顔認証であっという間に出国ゲートを出た僕、エミレーツ航空の待合ロビーで一人しばらく待つ。ドバイ着後のフライトであるシャルジャからエルビルの便はeチケットも無く、予約番号の書かれたメールが携帯にあるのみ。しかも出発一日前である今から、航空会社のサイト上でセルフチェックインできるとのことなので、慣れぬ手付きでやってみる。空港内のWi-Fiが混んでいるのか反応が遅く、そうこうしているうちにドバイ便のゲートが開き、機内に乗り込んでからもしばし格闘が続いたものの、やがてチェックイン完了の言葉とQRコードの入った搭乗券メールが届いた。果たしてこれで次の飛行機にもう乗れるのだろうか。と言うか、僕の今持っている携帯はWi-Fiがある所以外ではネットを開くことができない。いざこの搭乗券メールが必要になる場面でこれを開けるのだろうか、やや浦島状態の僕はイマイチついていけておらず、不安はまだ拭えない。

ま、心配しても仕方無い。この飛行機に乗っていればドバイまでは間違い無く行く。後のことは明日到着してから考えよう。定刻通り12時5分に離陸した飛行機では、意外にもちゃんと夕食が出された。少し小腹の空いていた僕はこれに満たされ、膨大な品揃えの音楽チャンネルからアラブ各国のポップスなど聴きながら、やがて眠りに就いた。

 

幸い隣に座る欧米人はそんなにトイレが近い人ではなかったため、途中道開けに起こされること無く翌朝を迎えた。朝食を食べてから現地時間に時計を合わせているうちに、朝5時45分、無事ドバイ空港に到着。

 

 

タラップを降りた所には一台のバスが待っており、その広い敷地をしばらく走りながらターミナルビルへと移動する。人の流れに任せて進むと顔認証の入国ゲートに案内されたが、機械にパスポートを置いてカメラに顔を向けると、なぜかエラーになってしまう。しまいには普通のイミグレ窓口で手続きして下さいというメッセージが出て、結局イミグレの行列に並ぶことに。周囲を見てもみんな同じ感じだったので、このターミナルの顔認証機械はちょっと調子悪いのかも。

 

 とりあえず順番さえ回ってくれば入国審査はスムーズ。一日だけ有効のSIMカードまでもらえた。そのまままっすぐ行くと外貨換金窓口があった。20USドル、そして家に転がっていた370中国元をUAEディルハムに換金した僕は列に並んで速やかにタクシーに乗り込み、シャルジャ空港へと急ぐ。最近はメトロもできて一層市内の移動が便利になったらしいドバイだが、隣町のシャルジャとは依然タクシーかバスの乗り継ぎぐらいしか交通手段が無いそうで、時間的に間に合うかが不安要素であったが、事前に調べていた通り、約30分でシャルジャ空港に到着した。ここまでは何とか順調。まだ朝7時過ぎなのでむしろ早過ぎるぐらいだ。ドバイ発エルビル行きの飛行機もあるにはあるのだが、フライトが午後で現地着が夕方となってしまうため、今日から観光するには午前中のフライトに乗りたい。いろいろ探して、このシャルジャ発の便が見つかったというわけ。

 

世界屈指の国際空港からやって来ると、いかにも地方空港の雰囲気いっぱいで、こじんまりとしたシャルジャ空港。

 

 

アラブ人男性のエチケットである強い香水の香りが一面に漂う。エルビルへのフライトは9時45分発。すったもんだして時間がかかると思っていたので大急ぎでシャルジャ空港に来たものの、チェックインも済んでしまった僕は手持ち無沙汰。やはり紙の搭乗券が無いとイマイチ不安な僕はエルビル行き便の航空会社であるエアー・アラビアのチェックインカウンターに行き、列には並ばず、そこにいた係員にさりげなく聞いてみた。係員は僕の荷物の重量だけ測ると、その携帯画面があるからもう手続きは無い言われ、とりあえず安心することにした。

 

 やることも無いのでそのままイミグレカウンターに行くと、女性審査官はパスポートを見て眉をひそめ、あっちのカウンターに行けと反対方向にある窓口を指差した。空港税か何か不備でもあったのだろうかと、言われたカウンターに行ってみるも、誰も座っていない。ふとこの窓口の札に目をやると、何と「オーバーステイ」なんて書いてあるではないか! 僕、UAEに入国してからまだ二時間しか滞在してないんですけど…。

 

間もなくやって来たのは、頭の黒い輪っかと白装束がいかにもアラブ人っぽい役人。彼は僕のパスポートを見るや先程のイミグレと同様に眉をしかめ、どこかに電話を始めた。そしてそのままパスポートを預かった状態で、後で呼ぶからあそこで待っていろと言う。何でこんな所で足止め? 出だしから何てこった…。

 

イミグレ隅っこの殺風景なプラスチック椅子に腰掛け、いつ呼ばれるかもわからない状況下、緊張しながらしばし待つことに。入国から出国までの時間が短か過ぎるとか、9時45分のフライトなのに二時間も前に出国しようとしたこととか、何らかこの国では普通じゃないことがあって誤解されているのだとは思う。何か疑問があるならむしろ質問責めにしてほしいのだが、きっと呼ばれた頃にはわけも聞かされず、OKとかダメとか判断が下されるのだろう。約10分後、カウンターの役人が呼んでるよと隣に座っていた男性が教えてくれた。

 

行ってみると想像通り、白装束の役人は何も言わずしかめっ面のままパスポートを僕に返し、イミグレの方に行けと前方を指差した。再びイミグレの窓口に行き、さっきと同じ女性審査官にパスポートを渡す。彼女はやはり首を少し傾げながら、あなたのパスポートは日本のパスポートですよね? と聞いてきた。それを聞かれて僕はハッとした。海外旅がご無沙汰だった僕は、イミグレの際にパスポートのカバーを外して審査官に渡す、という常識がすっかり薄れてしまっていた。僕のパスポートカバー、実はレバノンのパスポートの表紙がデザインされているのだ。

  (左のが普段使っているパスポートカバー)

 

以前ドバイで買った一種の面白グッズなのだが、まさかこのカバーでパスポート偽造、或いは国籍偽証を怪しまれたってことか?! そんな危ない展開に陥るとは、ここから先の道中、気を引き締めて行かないと!

最後にアジアを旅した2019年のモルディブ家族旅以来、五年ぶりの旅立ち。コロナ禍というブランクを経て、新たな出発を控える僕は今まで体感したことも無い不安の中にいた。

 

ホテルや航空券を各自ネットで予約するようになったのは結構前からであったが、eチケットではなくセルフチェックイン用の予約番号のみの発行が主流になっていたり、お金の決済もキャッシュレス化が進み、それでも現金が必要な場合は従来利用してきた空港の銀行窓口や街中の両替屋ではなくATMでの引き出しが主流になっていたり、現地での移動は従来のタクシーではなく配車アプリが主流になっていたり。その国特有の旅情報だけでなく、一般的な海外への個人旅行の仕方自体がコロナ前と後で大きく変わってしまった。残念ながらその面で日本は先端を行っているとは言い難く、まるで海外旅の初心者かのように不安だらけのこの三か月、毎日一件一件勉強するような感覚で準備を進めてきた。

 

少なくともどこの国であれ、スマホを駆使できなければ死活問題に繋がりかねないほど環境は変わった。携帯が無くてもガイドブックをもとに安宿の多いエリアに行って自分に合った宿を行き当たりばったりで探し、目的地に行くのにタクシーを捕まえて料金交渉をしたり、その時の状況次第で鉄道の切符を買うか、国内線の航空券を買うか決めたり。そんな風に今までやってきたスタイルはもう過去のものとなったのか?

世の中は便利になったようなのだが、調べれば調べるほど面倒なハードルが立ちはだかり、新しいアプリやこれまで使ったことも無い機能が使いこなせなければならないのかと思うと、心が折れそうになる。しかしそれを知らないと現地に着いたら本当に全く前に進めないので調べるしか無い。しまいには調べることに疲れてきた。いや、それどころか辛くなってきた。大好きな未知なるアジアへ行く当初のワクワク感はどこ行った!?

 

なんて出だしからいろいろ思い悩んでいるわけだが、今回訪ねる未踏のアジアはやはり中東方面。最後に彼の地を訪れたのは2013年のチュニジアだから、もう10年ぶりなのか。今回は約一週間の休暇を使って二か国回るという弾丸旅となる。せっかくのチャンス、どうせ行くなら、生きているうちに訪れることは不可能かも知れないと最近まで思っていた、これまでに無くハードルの高そうな国々を回ってやるか。今なら情勢が安定しているイラクのクルド自治区を前半に、観光目的でやっと入国できるようになったサウジアラビアを後半に訪ねるプランを立ててみた。

 

イランとの戦争に始まり、クウェート侵攻からの湾岸戦争、更には米軍の侵攻でフセイン政権崩壊、そしてIS(イスラム国)の台頭と、戦乱状態が3, 40年続いてきたイラクだが、ISの衰退後、急速に治安は改善。首都バグダッドも大分落ち着いてきたようだが、もっと前段階から安定を取り戻した北部のクルド自治区を今回行先に選んだ。

そしてこれまではビジネスかイスラム教徒の巡礼以外で訪れることが極めて難しかったサウジアラビア。2019年から念願の観光ビザが発給されるという大改革が実施された。

 

文字通り謎のベールに包まれた世界を見てみたい反面、まだまだ観光客が多くない国々だけに情報も乏しく、何か一つトラブったら次のステップが閉ざされてしまいそうな、これまた文字通り綱渡りの旅になりそうだ。冒頭に書いた数々の不安は、そんな旅を選んでしまったからに他ならない。だが一方で未知のアジアに足を踏み入れるチャンスを五年ぶりに手にした今だからこそ、ふらつきながらも綱を渡り切り、数あるハードルをよろけながらも越えられるのではないかと思っている。特に根拠は無い。プランをし始めた時の僕には、未踏の国の中からただ行きやすい国を選んで行くだけでは、一連の変化が面倒くさくなって旅立てなくなる恐れがどこかにあり、敢えて冒険心を掻き立てるようなハードルの高い国を選んでみた。今回の旅は都市から都市へ移動するだけでもちょっとした大仕事。一つの仕事を成し遂げるごとに不安が安心に、そして僅かながらの自信へと変わっていく。そしてこの旅を乗り越えられれば、その経験を糧に次の旅に繋げていけるのではないかという、言わばアジア旅終盤のモチベーションアップを考えていたのかも知れない。

いろいろ変わったことは事実であろう。だが、いざ行ってみれば、行き当たりばったりでもきっと何とかなるよと、心のどこかでは思っている。とりあえず自分なりに頑張り、そして楽しんでいこう。

 

今回のコースはまず夜中12時のフライトで羽田を出発し、翌早朝にUAEのドバイに到着。そこからすぐ隣の都市シャルジャの空港に移動し、イラク北部はクルド自治区の中心都市であるエルビルに飛ぶ。初日のエルビルだけホテルは予約しているが、その後二日間どう回るかは現地の雰囲気を見て決める。三日間のイラク滞在を経た明け方の便でヨルダンのアンマンを経由し、サウジアラビアのジェッダに入国。そこから高速鉄道に乗って聖地メディナに行き、観光後は長距離バスで砂漠の街アル・ウラに入る。そこにある世界遺産マダイン・サレー遺跡を見学後、その日の夕方にドバイに飛んで一泊。翌早朝のフライトで帰国するという強行軍だ。各都市を結ぶフライトを繋げるのに少し苦労したが6月中に全路線のチケットを確保。ネット申請でサウジアラビアの観光ビザを取得し、ジェッダからメディナを結ぶ高速鉄道、メディナからアル・ウラへの長距離バス、マダイン・サレー現地ツアーの各チケットもまた日本で購入した。

ネットでの申請がなかなかうまくいかなかったり、出発の二、三週間前にならないと購入できないチケットもあったりで、ITに強くない僕は少しすったもんだもあったが、一つ前に進むと一つ安心が手に入った気がした。